子供のダンスがガチガチになるのは力が足りないからじゃない

獅子会のSHIGE_SDSです。
みなさん、子どもが一生懸命踊っているのに、「なんでこんなに身体がガチガチになるんやろ」と感じることないですか?
- 肩がずっと上がって、腕が棒みたいになる。
- 転ばないようにするほど、足が動かなくなる。
- 振付を間違えまいとして、呼吸まで止まっている。
- 家では動けるのに、人に見られると急に小さくなる。
これを見ると、「もっと力を抜いて」「リラックスして」と言いたくなる。
それは間違っていない。余計な力が抜けたら、身体は動きやすくなる。音楽も入りやすくなる。
でもな、俺はその前に見たいことがある。
その子の身体は、何のために固くなったんやろ。
ガチガチは、やる氣がない状態ではなく、失敗しないように身体が自分を守っている状態かもしれへん。
ここやねん。
今日は、力、バランス、失敗への怖さ、正解を探す頭、そして身体が安心してほどけるまでをつなげて話していく。
一生懸命なのに、身体がガチガチになる
レッスンで、めちゃくちゃ真面目に話を聞いている子がいる。
先生の動きを見逃さない。足順も覚える。言われた形へ近づこうと、何度も練習する。
でも曲が流れると、肩が上がる。肘が固まる。膝が曲がらない。顔まで難しくなる。
本人はふざけていない。むしろ逆。ちゃんとやろうとしすぎて、身体の全部が同時に頑張っている。
足を間違えないように頑張る。腕を忘れないように頑張る。先生を見るために頑張る。転ばないように頑張る。
身体の中で、全員が「俺が守らな」と力を入れている状態。
これを外から見て「力抜いて」と言っても、本人には抜き方が分からへん。だって抜いたら、全部崩れるように感じているから。
まずは、固まったことを責めない。そこまで頑張って守ろうとした身体を、ちゃんと見るところからやと思う。
同じ子でも、好きな曲で自由に動いている時は肩が下がっていることがある。振付になった瞬間だけ固くなる。
それなら、その子の身体がもともと固いわけちゃう。正解がある場所、見られる場所、失敗が分かる場所で、守りのスイッチが入っている。
「家では踊れるのに」と親御さんが不思議に思うのもここ。家では間違えても止められない。誰かと比べられない。身体が守る必要を感じていない。
レッスンで固くなるのは、家でできたことが消えたんちゃう。環境が変わって、身体の優先順位が「踊る」から「失敗しない」へ変わっただけかもしれへん。
力を入れるほど安定する、とは限らない

片足で立つ時、転びたくないから身体に力を入れる。
お腹を固める。肩を上げる。手を握る。足の指まで地面をつかもうとする。
少しなら必要な力もある。でも全部を固めると、身体は揺れに合わせて動けなくなる。
バランスは、まったく揺れないことちゃう。揺れた時に小さく戻れることなんよ。
固めて耐える。
揺れながら戻る。
同じ立っているでも、身体の中は全然違う。
木でも風が吹いた時、少ししなるから折れにくい。身体も一緒。
膝や足首、背中が小さく動けると、ズレた分を全身で受け取れる。でも肩から足先まで一枚の板にすると、一か所のズレが全部を倒す。
強く立とうとして固めた身体より、必要な場所だけ使って戻れる身体の方が安定する。
力が足りないから揺れるんちゃう。力を動かせないから、揺れを受け取れないこともあるんよ。
ダンスでは、重心がずっと移動する。右へ行く。左へ戻る。前へ出る。止まる。音楽に合わせて、身体の中心も動き続ける。
そのたびに固め直していたら、次の一歩へ間に合わない。前の形を守っている間に、音はもう先へ行く。
安定とは、正しい形を長く保つことではなく、変わり続ける中で自分を見失わないことやと思う。
揺れたら失敗ではない。揺れたことに氣づいて、足裏や呼吸で戻れたらいい。その経験が増えるほど、身体は固めなくても大丈夫やと覚えていく。
できない場所を、別の場所が守っている
レッスンで、右手だけが固く見える子がいた。
「右手の力を抜いて」と言えば、右手の問題に見える。でも身体を見ていくと、片側でバランスを取ることに不安があった。
転ばないように、右手が無意識に頑張っていたんよ。
つまり、固い場所が悪いのではなく、別の場所を守る仕事を引き受けていた。
肩が上がっている時、肩だけを下げても戻ることがある。足元が不安なら、また肩が守りに入るから。
腕が動かない時も、腕の練習だけで変わらないことがある。背中が使えていない。呼吸が止まっている。目線が近すぎる。
身体は全部つながってる。
だから俺は、固い場所を見つけたら「ここを抜け」だけで終わらせたくない。その場所が何を助けているのかを一緒に探す。
役目が分かれば、守り方を変えられる。右手だけで頑張らなくても、足裏や膝、背中へ仕事を分けられる。
首が固い子を見たら、首だけ回して終わりにはしない。目線を動かすのが怖いのか、身体の向きが分からなくなるのか、胸や背中が止まっているのかを見る。
足が重い子も、足の力だけとは限らない。上半身が置いていかれて、足だけで全身を運ぼうとしていることがある。
身体は賢い。できない場所があっても、何とか動けるように別の場所が助ける。そのお陰で、今日まで踊れてきた。
ただ、その助け方がずっと続くと、助けている場所が疲れる。だから悪者にして止めるのではなく、本来の仕事をほかの場所へ返していく。
「右手、ありがとう。もう足でも支えられるで」と身体へ新しい方法を教えるような感覚なんよ。
正解を探しすぎると、身体の中で戦いが始まる

振付を覚える時、頭は正解を探す。
右足か。左足か。手は上か。角度は合っているか。先生と同じ場所か。
確認することは大事。でも全部を踊りながら考え続けると、頭と身体が戦い始める。
身体は音に反応したい。頭は形を守りたい。足は前へ行きたい。目は先生を探したい。
間違えるな。
遅れるな。
形を崩すな。
ちゃんと見ろ。
命令が増えるほど、身体は自由に動けなくなる。
でも、考えて、構えて、また考えている身体はしんどい。音楽の中で踊っているより、身体の細胞同士で戦っているようになる。
正解をなくす必要はない。練習する時は一個ずつ確認する。でも曲が流れたら、一度その答えを身体へ任せる。
全部を頭が管理しなくてもいいと分かった時、身体の中の戦いが少しずつ終わっていく。
そのために、練習する焦点を一個にすることもある。今日は足の置き方だけ。腕は多少違ってもいい。次は目線だけ。足はさっきの感覚へ任せる。
一度に全部を直そうとすると、子どもの頭は監督だらけになる。足の監督、腕の監督、顔の監督が同時に叫ぶ。
まず一人にする。ほかは身体へ任せる。そうすると、できていない場所があっても、音楽の中を進めるようになる。
完璧な形を一回出すより、少し違っても自分で動き続けられた方が、次の練習につながる。身体が経験を受け取れるから。
失敗しないように踊ると、音楽が遠くなる
人に見られるとガチガチになる子は多い。
間違えたら恥ずかしい。止まったらどうしよう。先生や親にできていないと思われたくない。
その氣持ちがあると、子どもは音楽より先に失敗を探す。
次の足は大丈夫か。ここで止まらないか。あの技は出せるか。まだ起きていない失敗を避けるために、身体が先回りして固まる。
音楽は今にしかない。でも怖さは、少し先の未来を見ている。
だから「間違えてもいい」と言葉で伝えるだけでは、すぐ身体は変わらない。間違えても戻れた経験が必要なんよ。
足を外した。でも次の音で戻れた。止まった。でも友達のリズムを見てもう一度動けた。
失敗しても踊りは終わらないと身体が知ると、未来を守るための力が少しずついらなくなる。
安心は説明で入れるものではなく、戻れた経験を積み重ねて身体に入っていくものやと思う。
先生が間違えた場所だけを見ると、子どももそこだけを覚える。でも戻れた場所まで見れば、失敗の記憶に続きができる。
「間違えた」で終わらず、「間違えたけど戻った」になる。この後半があるだけで、次に同じ場所へ来た時の身体は少し違う。
怖さがゼロになってから踊るんちゃう。怖さがあっても戻れた回数が、少しずつ身体の安心へ変わっていく。
見られることも一緒。最初は一人に見てもらう。次は仲間の前。小さな成功を重ねる。身体が「見られても自分は消えへん」と知るまで急がなくていい。
力を抜く前に、自分のゼロを知る

「力を抜いて」と言われても、どこまで抜いたらいいか分からない。
全部抜いたら立てない。踊れない。だから子どもは、とりあえず今まで通り固める。
その前に必要なのが、自分のゼロを知ること。
足をどれくらい開くと立ちやすいか。膝はどこにあるか。呼吸した時に肩がどう動くか。何も始めていない時の自分を感じる。
踊り始める前に一度立つ。足裏を感じる。呼吸する。その状態から一歩を置く。
途中でガチガチになっても、ゼロを知っていれば戻る方向が分かる。
自分のゼロは、先生と同じ形とは限らない。足の長さも、立ちやすい幅も、その日の身体も違う。
誰かの正解へ戻るのではなく、今の自分が立てる場所へ戻る。
この場所が見つかると、力を抜くことが怖くなくなる。抜いても自分が消えないと、身体が知るからやねん。
ゼロは毎日まったく同じではない。疲れている日、元氣な日、緊張している日で、足裏の感じも呼吸も違う。
だから昨日の立ち方を再現するのではなく、今日の自分に聞く。「今、どこなら立てる?」と。
最初は止まって感じる。慣れてきたら、歩きながら戻る。踊りの途中でも、一歩置いた瞬間にゼロを思い出せるようになる。
ゼロを持っている子は、崩れない子ではない。崩れても帰る場所を知っている子。
帰る場所があるから、思い切って動ける。大きく外れても、次の音で自分へ戻れる。自由は、戻れる場所があるから広がるんよ。
身体がほどけるのは、安心して任せられた時
リラックスは、だらっとすることちゃう。
必要な場所へ必要な力を渡して、ほかの場所が自分の仕事へ戻れる状態やと思う。
足裏が地面を受け取れるから、肩が守らなくていい。背中が腕を支えられるから、手先まで固めなくていい。
身体の中で、「そこは任せた」と仕事を渡せるようになる。
足は地面を感じる。
膝は揺れを受け取る。
背中は腕を運ぶ。
呼吸は流れを止めない。
全部が同じ力で頑張らなくていい。
レッスンでも、一個の場所が使えるようになった瞬間、関係のないように見えた場所がほどけることがある。
足の置き方が分かったら、右手が自然に動き始めた。目線を遠くしたら、肩が下がった。音を聞けたら、呼吸が戻った。
身体は部分の寄せ集めちゃう。一つが安心すると、別の場所まで変わる。
だから、ガチガチを一氣に消そうとしなくていい。身体が任せられる場所を、一個ずつ増やせばいいんよ。
人との関係も同じやと思う。先生に間違いを見つけられると思うと、身体は守りに入る。先生が戻り方を一緒に探す人やと分かると、少し任せられる。
仲間が笑わない。失敗しても次の音を一緒に取ってくれる。その場の経験も、身体の力をほどいていく。
リラックスは一人で作るものに見えるけど、どこに身を置くか、誰と練習するかにも大きく影響される。
安心できる場やから何でもできる、ではない。挑戦して失敗しても、自分の場所へ戻れる場。その積み重ねが、身体に任せる力を育てるんよ。
親が「もっとしっかり」の前に見てほしいこと

親御さんが子どもの固い踊りを見ると、「もっと大きく」「しっかり動いて」と声をかけたくなる。
応援したいから出る言葉やし、悪いことではない。
でも、すでに全部の場所で頑張っている子へ「もっと」を足すと、身体はさらに守りを強くすることがある。
その前に、何を守ろうとしているかを見てほしい。
- 片足になった時だけ、腕が固まっていないか。
- 先生を見る瞬間に、呼吸が止まっていないか。
- 間違えた直後から、身体が小さくなっていないか。
- 一人で踊る時だけ、肩が上がっていないか。
固い場所ではなく、固くなる瞬間を見る。
前は最初から最後まで肩が上がっていた子が、一小節だけ自然に動けた。間違えた後、次の音で戻れた。
これも、めちゃくちゃ大きな成長。
「もっとしっかり」の代わりに、「今の一歩、楽そうやったな」と伝えてみる。
子どもがその感覚に氣づけば、次もそこへ戻りやすくなる。できていない場所を増やすより、身体が安心できた場所を一緒に見つけるんよ。
動画を見る時も、固いところだけを探さなくていい。肩が下がった一瞬、呼吸が見えた一歩、間違えた後に顔が戻った場所を見る。
「ここは力抜けてたで」と決めつけるより、「ここ、どんな感じやった?」と本人へ聞いてみる。
本人は分からないかもしれへん。それでも映像と身体の感覚をつなぐ問いになる。
大人が先に答えを渡しすぎず、子どもが自分で楽な場所を見つける時間を待つ。その待ち方も、身体へ安心を渡すことになる。
獅子会で伝えたいガチガチの正体
獅子会でガチガチな身体を見る時、ただ力を抜かせたいわけちゃう。
もちろん、余計な力が抜けたら踊りは変わる。音楽が入る。動きがつながる。持っている技も使いやすくなる。
でも、その奥にあるのは、身体が何を怖がり、何を守ろうとしているかを自分で知ることやと思ってる。
固くなった自分をダメにしない。怖かったことを隠さない。間違えたくなかった氣持ちも受け取る。
その上で、今の自分が戻れるゼロを探す。
全部つながってる。
リラックスできたから良いわけでもない。ガチガチな日も、怖い日も、その身体のまま今ここに在る。そこから一個ずつ任せられる場所を増やす。
方法なら、変えていける。
足裏へ任せる。呼吸へ任せる。音楽へ任せる。仲間や先生がいる場へ、少し任せてみる。
子どもたちには、固くなった自分を嫌いにならないでほしい。
その身体は、失敗しないようにずっと守ってくれていた。まずはそこへ氣づく。
守ってくれた身体へ「もう少し動いても大丈夫やで」と、新しい経験を渡していく。
これはダンスだけの話ちゃう。
初めての場所で身体が固くなる。人前で話す時に呼吸が浅くなる。知らないことへ挑戦する時、失敗しないよう考えすぎる。
その反応を弱さと決めなくていい。今の自分が自分を守るために選んだ方法やと分かれば、次の方法を試せる。
守ることもできる。任せることもできる。固めることも、ほどくことも選べる。身体の選択肢が増えるほど、人は自由になる。
その積み重ねが、頑張らなくても動ける身体を作る。
その身体から、その子のダンスが出てくる。
全部、お陰様。
SHIGE_SDS
